公開:2010.11.23 11:05 | 更新: 2020.10.24 02:06
以下はCharles Blair Macdonaldの著書”Scotland’s Gift”の翻訳である。Macdonaldは「アメリカゴルフの父」と呼ばれている人物であるにも関わらず、日本ではあまり知られていないようである。彼がアメリカゴルフの父と呼ばれる理由は本書に明らかであるが、端的に言えばアメリカにゴルフを正しく伝えたためである。彼が設立したシカゴゴルフクラブはUSGAの創立5クラブの一つであり、彼はシカゴゴルフクラブのキャプテン(日本で言う理事長)であった。また、リンクスの名ホールをアメリカに再現するためthe National Golf Links of Americaを設計、設立した。それ以降のコース設計の規準となる決定的な仕事であった。なおMacdonaldは1939年になくなっており、著作権、ひいては翻訳権の保護期間(日本では50年)および戦時加算(約10年)を考慮しても著者の死後70年以上が経過しているため翻訳の公開が自由になっている。
by Charles Blair Macdonald
遠く、かつ正確に。
—Motto of John Patersone, The Cobbler-Partner of James VI
私がゴルフを最初に知ったのは1872年の8月はじめのことであった。16歳の時であった。私の父はスコットランド(Scotland)のセント・アンドリュース(St. Andrews)にいる祖父の元へ行き、そこ—the United Colleges of St. Salvador and St. Leonard’s—で大学教育を受けることを望んだのだった。我が家の古くからの友人であるカークウッド氏(Mr. Kirkwood)の庇護を受けるべく、私は7月にシカゴ(Chicago)を離れた。私は大西洋を渡った最後の外輪船、Cunard line社のScotiaで海を渡った。9日間の旅の後にクイーンズタウン(Queenstown)に到着した。コーク(Cork)からキラニーの湖(the Lakes of Killarney)まで馬車で移動した。そこで私は城に登ってブラーニー石(Blarney Stone)にキスしたことを告白せねばなるまい ((訳注:アイルランドのブラーニー城の城壁頂上部にある石。これにキスをすると雄弁になれるという言い伝えで有名。また”kiss the Blarney Stone”で「お世辞を言う」という意。))。よって私がリンクスで幸運にも出会えた人々に捧げる大いなる賞賛をご理解いただけるであろう。ダブリン(Dublin)を訪れた後に我々はグラスゴー(Glasgow)を経由して列車でエジンバラ(Edinburgh)へ向かった。そこで心身ともに健康な状態で期日通りに祖父—バリーシアーのウィリアム・マクドナルド(William Macdonald, of Ballyshear)—の元へと到着したのだった。
カークウッド氏がエジンバラの東5マイルにあるマッセルバラ(Musselburgh)からやって来た。私はカークウッド氏とともにマッセルバラへ行くことが許され、彼の年老いた母と共に一晩を過ごすことになった。私がゴルフというものを初めて耳にしたのはまさにここであった。私は赤い外套を着たプレーヤー達やマッセルバラコモン(Musselburgh Common)—すぐに理解に至ったのだが私にとっては「コモン」すなわち「共有地」であったものが、彼らにとっては「リンクス」であった—をぶらつく彼らのくつろいだ様子に強く興味をそそられた。それは私には馬鹿らしくもくだらないtiddledy winks ((訳注:コインを跳ね上げてカップに入れるゲーム。))の一種に思えた。かつてこれほど激しさも力強さもないスポーツを見たことがなかったからである。マッセルバラもまた非常に魅力のない場所に思えた。その晩、私はこの退屈な場所に幽閉されてしまうのだろうかと心配した。
我々は次の日、午後6時頃セント・アンドリュースに到着するようにと、午後3時にエジンバラのウェイヴァリー駅(Waverly Station)から出発した、。当時、その旅程は非常に骨の折れるものであった。我々はまずグラントン(Granton)へと列車に乗り、そこでフォース湾(Firth of Forth)を渡ってバーント島(Burnt Island)へ向かう蒸気船に乗った。その船の中で島に到着するまでの間ずっとバイオリンを弾いていた盲目の老人がいたことを覚えている。それから列車に乗ってLuchars分岐駅まで行き、そこでいとしきセント・アンドリュースまでの6マイルを走る列車へと乗り換えた。そのころの列車は駅は向かう途中、オールドコース(the Old Course)の3番、4番、15番、そして16番ホールの脇を通ったものである。そして、客車を共にしていた我が父の友人であり、1836年以来の好スコア95で1856年のシルバークロス(Silver Cross)に勝ったこともある著名なゴルフ家系の一員のトーマス・モンクリーフ卿がゴルフの魅力について長々と説明してくれたが、私には理解できなかった。まだ、時が満ちていなかったのだ。
非常に驚いたことに、セント・アンドリュースの町は瞬く間に私を魅了した。とても古風で由緒ある町なのだ。私のアメリカでの人生との比較においてとはいえ、今思い返してみても、至る所に印象深いものを認めることができる。南北戦争が終わった7年後に私はシカゴ—その9ヶ月ほど前の大火事でほとんど全てが破壊され、ゆっくりと復興し始めた人口30万人の都市—を離れたのだ。セント・アンドリュースとの対照は鮮烈なものであった。その歴史上、また古代においても類を見ない場所に位置している。セント・アンドリュースは南をフォース湾に、北をテイ湾(Firth of Tay)によって切り取られた、辺鄙で交通の便の悪い荒涼とした岬にある。ここでは誰もが過去に吸い寄せられているようであり、アメリカでは誰もが未来に引き寄せられているのと対照的である。この対照はヘンデルの「葬送行進曲」と「ジョージアを越えて」との対照を想起させる。私がセント・アンドリュースでの生活に慣れるまで時間はかからなかった。すぐにこののんびりとした愉快な生活と歩調を合わせたのだった。
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