公開:2010.03.04 11:18 | 更新: 2022.08.25 04:25
これらの若者たちは、この小さなボールを小さな穴に誰よりも少ない回数で放り込むというゲームにあまりに深く嵌まってしまっていて、生きる上でもっと大切な知的なバランスを保とうとする態度が犯されてるだけでなく、事実上存在しない。[...]
こんなことが起こっている。これらの有名なジュニアゴルファーのほとんどが、知性のある会話をすることができないでいる。しばらくするとゴルフの話に戻ってしまうのだ。たしかにゴルフは素晴らしいスポーツだ。そしていつまでもそのようなものであって欲しい。
— Donald Ross “Spoiled Golfers” Golf Has Never Failed Me
ゴルフの魅力を語る時に、僕はよく「ゴルフは素晴らしいスポーツです」という。これではまるで魅力を語れていないわけだが、一言では語れないものであることも事実であろう。
むしろ、ゴルフというスポーツは魅力的すぎるのが問題ではないか、と思うことさえある。事件が起きた時にもゴルフを続けたとして問題になった総理大臣もいる。これが事実かどうか、また、妥当なことであるかはわからないが、さもありなん。
しかし、ゴルフはどこまでいっても「遊び」であり「娯楽」である。ゴルフは何よりも優先されるべきものではないし、実際ゴルフはあくまで余暇の過ごし方の一つに過ぎない。特にジュニアゴルファーにとって一番大切なことは学校での勉強であり、それが一生の宝になるのである。
ところが日本には反知性主義がはびこっていて、「学校での勉強など世の中で役に立たない」などといわれる。これは歪んだ形での学歴批判であろうが、役に立たないのは学校での勉強のせいではなく、それを役に立てることができない人の問題である。現代の技術のほとんどは科学的な基礎や洞察から得られたもので、我々の生活は永年にわたる人類の知的営みの上に成り立っているのである。
明治時代以降、日本がここまで発展できたのも、ひとえに江戸時代から続く日本人の教育への高い関心の伝統のためである、と思う。しかし、それが今、急速に失われている。今の日本ほど反知性主義が蔓延している国は、他で見たことがない。
アメリカでの例を挙げたい。アメリカでは成績をA、B、C、とつけるが、Aを4点、Bを3点、Cを2点、、、と数値化して平均したものをGPAと呼ぶ。小学校から大学に至るまで、このGPAがある基準を超えていない学生はクラブ活動が停止させられるのだ。だから、試合の移動中(アメリカは広大なので対抗試合の移動時間も長い)も、みなバスの中で宿題を一生懸命こなす姿が当たり前に見られる。
目標としてプロを目指すことは、本人のためにもゴルフのためにも素晴らしいことである。しかし、ゴルフ界がそのことに偏ってしまってはいけない。もっと「草ゴルフ」の普及に努めなければ、バランスの取れたゴルフの発展にはつながらないだろう。
学校から帰ってきてランドセルを放り投げ、友達と連れ立ってゴルフコースや練習場に行き、草野球をやる感覚で草ゴルフをやる。大人達が暖かいまなざしで見守り、また手を差し伸べ、マナーや技術を教えていく。こんな光景が当たり前に見られるようになったら、と思う。
余談だが、かつて作家の曾野綾子が「二次方程式を解かなくても生きてこられた」といった内容の発言をして、その後、教育課程から解の公式がなくなったことがあった。その因果関係は明確ではないが、このような論理は危険である。彼女は「二次方程式を解くのは人生に必要ではない」と言っているわけだが、それは事実であろう。しかし、これは「二次方程式を解く必要のない人もいる」というだけで、そこから「全ての人にとって二次方程式を解く必要性はない」という結論は導けない。
あと、二次方程式を解くことがどれくらい「無価値」であるか、あるいは「価値」があるか、ということでいうと、これはもう数学を使う分野であればどこでも必要なので価値は高い。
これまたさらに余談になるけど、二次方程式の解の公式を習った後に、三次方程式の解の公式は普通は習わない。ましてや四次方程式の解の公式なんて絶対にやらない。これらの公式は存在することはするけれど、あからさまに複素数を使うし、結構複雑なので二次方程式ほどわかりやすくない。
二次方程式の解の公式は2000年以上前から知られていて、バビロニアの石碑に記録が残っているらしい。しかし、三次方程式となると、ルネッサンスのイタリアまで待たなければならない。三次方程式、四次方程式についてはいろいろとドラマがあって、それ自体も面白いのだが、とにかく、ルネッサンスの時代に四次方程式までは決着がついた。
当然ルネッサンス期の彼らは五次方程式にも取り組んだのだが、上手くいかなかった。これが解決したのは1830年頃、ノルウェイの数学者アーベルによってであったが、それをさらに明確にしたのがフランスのガロアであった。その中でガロアが作り上げた「群論」と「ガロア理論」は今でも輝き続けている大業績(例えば群論は物理学の超弦理論に使われる)だが、驚くべきことにガロアはそれらを10代でやり遂げ、動乱に揺れるパリで決闘の末、二十歳の若さで死んでいる。
このように、ながらく五次方程式の解法が見つからなかったのだが、意外な形の結末となった。五次方程式には解の公式が存在しないのである。正確にいうと五次以上の代数方程式にはベキ根による解が一般には存在しないのである。特殊な例としてベキ根で解ける方程式もあるが、そのような条件(必要十分条件)を発見したのがガロアであった。そして、その理論(ガロア理論)は数学や物理の様々な分野へ応用され現在に至っている。
このように、学問というのはいつ、どこで、どう生きてくるのかわからないものである。こういったもの(どこでどう生きてくるかわからないもの)がまさに「知性」や「教養」であり、それを大事にすることが「知性主義」なのではないか。
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